秋野不矩
秋野不矩は、50歳で離婚し、4年後に佐和隆研教授がインドで日本画を教えないかという誘いを持ち帰った時、真っ先に手を挙げたのが彼でした。その後秋野不矩は、ビスババーラティー大学の客員教授として約1年間インドで日本画を教えま …
ご紹介している作家の作品は特に力を入れて買い取っております。
そのほかの作品につきましても買取対象となるものが多数ございますので、お気軽にご連絡ください。
秋野不矩は、50歳で離婚し、4年後に佐和隆研教授がインドで日本画を教えないかという誘いを持ち帰った時、真っ先に手を挙げたのが彼でした。その後秋野不矩は、ビスババーラティー大学の客員教授として約1年間インドで日本画を教えま …
浅井忠は、1898年東京美術学校(現東京芸術大学)にて教鞭をとります。1900年フランスへ留学し1902年に帰国。京都高等工芸学校(現京都工芸繊維大学)の教授副校長となります。翌1903年聖護院洋画研究所(1906年関西 …
1976年東京の大阪フォルム画廊で「有元利夫展-バロック音楽」を開催した後電通を退社することになります。その後、東京芸術大学非常勤講師として教鞭をとりながら制作を続けました。1978年、有元利夫は第21回安井賞展に出品し …
アンディ・ウォーホルは、1984年カーズのアルバムHeart beat CityからシングルHello Againのミュージックビデオを製作します。しかし、過激な内容が含まれていたため、放映が認められませんでした。アンデ …
1922年、平和記念東京博覧会で、伊東深水の「指」が2位のトロフィーを受賞し、同じ年に中国を訪れます。1927年大井町で深水画塾を結成し、1932年に人物画の復興を目的とした「青々会」を発足。1935年には勝田料亭の女将 …
上村松園(うえむらしょうえん)は、美人画の巨匠と呼ばれた女性画家です。明治の後期から昭和の初期にかけて活躍した人物になり、女性ではじめて“文化勲章”を受賞しました。松園の描く女性はとても生き生きとしていて、高貴で上品な女 …
大橋翠石(おおはしすいせき)は、岐阜県の大垣市出身の日本画家です。明治~昭和にかけて活躍し、世の中に「虎の翠石」とも呼ばれていた人物になります。まるで目の前で生きているかのような躍動感溢れる作品を次々に発表していきました …
尾形光琳(おがたこうりん)といえば、まず「紅白梅図屏風」を思い浮かべる人が多いほど、時代に左右されることのないデザイン性の高い作品を描き続けました。あらゆるモチーフを題材に描く才能は随一ともいわれるほどの天才で日本美術に …
1944年、梅原龍三郎は帝室技芸員に任命され、同年から東京美術学校でも教鞭をとるようになります。 1952年(昭和27年) 日本が主権を回復し、海外渡航ができるようになったため、東京美術学校教授を辞任して欧州に渡りヴェネ …
岡田三郎助は、1912年に藤島武士と本郷洋画研究所を立ち上げ、翌1913年久米桂一郎らと佐賀美術協会を組織します。さらに1919年、高村豊周、長原孝太郎、藤井達吉らと、装飾美術家協会を設立します。1926年、妻八千代と別 …
岡本太郎は年齢を重ねても創造への探究心が衰えず、生涯にわたって様々なイベントや展覧会に参加しました。80歳の時、ほとんどの自作を川崎市に寄贈し、市は美術館建設を計画しました。2003年(平成15年)、メキシコで行方不明に …
奥田元宋は、現在の広島県三次市に生まれ本名を厳三(げんぞう)といいました。1931年(昭和6年)に中学校を卒業し上京して児玉希望(1898ー1971)に師事します。奥田元宋は、1938年の第2回新文展で「盲女と花」が特選 …
近代に活躍した最も有名な日本画家の一人が奥村土牛です。本名を義三(よしぞう)といい「土牛」という呼び名は出版社を経営していた父親がつけたもので、寒山が詠んだ「土牛は石田を耕す」の一節に由来します。奥村土牛は、院展理事長、 …
織田廣喜は前年の二科展に出品した「夕やけ空の風景」で1995年(平成7年)3月に日本芸術院恩賜賞を受賞します。同時に日本芸術院賞も受賞しました。同年11月には日本芸術院会員(洋画)に選任されます。翌96年、碓井町立織田廣 …
梶喜一は、1924年に京都絵画専門学校に入学し、1927年に同校研究科へすすみ35年に修了します。1936年、師事していた都路華香が亡くなり、西村五雲の画塾晨鳥社に移りますが、翌37年に支那事変が勃発し陸軍兵隊として北支 …
片岡球子は、1982年(昭和57年)、裸の女性を描いた『ポーズ』シリーズの制作を開始します。歌舞伎役者四代目中村雀右衞門と親交があり、助六の揚巻の打掛の墨絵を描いたことは有名です。片岡球子は、1976年(昭和51年)勲三 …
堅山南風は、院展日展などで才能を発揮し、巨匠横山大観に認められました。花鳥画の美しさには定評があり、鯉などの魚類を見事に描きあげました。堅山南風は、1914年(大正3年)日本芸術院の再興に尽力し、同芸術院常務理事、日展参 …
世界的にも有名な浮世絵師といえば、「葛飾北斎(かつしかほくさい)」なくして語れません。生涯のなかで約3万点にもなる作品を生み出しているものの、本人についてはほとんど資料が残されていない謎の多い人物としても有名です。絵を描 …
勝田哲は、1896年(明治29年)7月8日京都市に生まれます。本名は哲三。1920年に東京、美術学校西洋画科を卒業。のちに日本画に転向し、京都市立絵画専門学校に入学。在校中平等院・法界寺の壁画模写を手掛け1925年山元春 …
金子國義は、ジャンルを問わず幅広い表現活動をした画家です。「富士見ロマン文庫」(富士見書店)「ユリイカ」(1988~)「婦人公論」(1971年~1974年)など多くの出版物の表紙絵や挿絵で知られています。また、1998年 …
鴨居玲は、昭和43年二紀会会員に推挙されます。44年「静止した刻」で第十二回安井賞受賞。同年、昭和会優秀賞も受賞します。翌年から昭和52年までスペイン、フランスに滞在し、昭和48年第27回二紀展で文部大臣賞を受賞していま …
加山又造は、西陣織の図案家加山勝也の子として、1927年京都府京都市上京区相国寺東門前町で、生まれます。京都市立美術工芸学校(現京都市立銅駝美術工芸高等学校・京都市立芸術大学)東京美術学校(現東京芸術大学)を卒業後、山本 …
菅楯彦は、1949年(昭和24年)に大阪府文芸賞を、1951年(昭和26年)に大阪市民文化賞を受賞。初めての公募展は、同年第7回日展に出品した「山市朝雨」で、審査を必要としない依嘱出品でした。その後も菅楯彦は日展に依嘱出 …
岸田劉生は、1908年(明治41年)東京高師附属中学校を中退し、東京赤坂溜池の白馬会葵橋洋画研究所で、黒田清輝に師事します。2年後の1910年(明治43年)文展に出品した作品2点が入選します。岸田劉生は、1911年(明治 …
浮世絵師の代表ともいえる「喜多川歌麿(きたがわうたまろ)」といえば、女絵や風俗画を精力的に描いた人物としても知られています。過去に制作した作品数は2000点を超え、誰もが一度は目にしたことのある作品がたくさん残されていま …
絹谷幸二が油絵を習い始めたのは小学校1年生の時でした。1971年に東京芸術大学で学士号を取得後、イタリアに渡り、ベネチアで伝統的なアフレスコ画(「アフレスコ」はイタリア語で「フレスコ」の意)の技術を習得します。1974年 …
草間彌生は、1973年(昭和48年)親友でありパートナーでもあったジョゼフ・コーネルの死後、体調を崩し日本の病院で治療を受け入院します。1978年(昭和53年)に「マンハッタン自殺未遂常習犯」を発表し、作家としてのキャリ …
熊谷守一は、1967年(昭和42年)87歳の時文化勲章の内定を辞退します。多くの人が、訪れるのを憂慮してのことでした。1972年(昭和47年)勲三等叙勲も同じ理由で辞退します。1976年、生家の岐阜県恵那郡付知町に熊谷守 …
小磯良平は戦後、東京芸術大学の教授として、後進の育成に努めます。定年後、迎賓館(赤坂)大ホールの壁画「絵画」「音楽」を手がけ日本洋画界に大きな功績を残し、同大学名誉教授の称号を授与されました。1992年(平成4年)「小磯 …
小杉小二郎は、東京都滝野川区(現北区)に生まれ、父は美術学者小杉一雄、祖父は日本画家小杉放庵、叔父は工業デザイナーの小杉二郎という恵まれた環境で育ちます。1962年、叔父の影響もあり、日本大学芸術学部工業デザイン科に入学 …
後藤純男は、1930年(昭和5年)千葉県に生まれます。生家は真言宗仏門でした。16歳で山本丘人に師事。その後田中青坪に日本画を学びます。22歳の時、横山大観らが設立した日本美術院展覧会(院展)に初入選。その後も、後藤純男 …
小林古径は、1935年(昭和10年)帝国美術院の会員となります。1944年(昭和19年)東京美術学校教授。同年7月1日帝室技芸員。1950年(昭和25年)文化勲章受章。1957年(昭和32年)4月3日に死去し、従三位、勲 …
小林和作は、1924年(大正13年)「夏の果実」が第2回春陽会にて初入選。1927年(昭和2年)春陽会に入会します。1928年(昭和3年)から1929年(昭和4年)にかけてヨーロッパ各地を旅行。1934年(昭和9年)春陽 …
斎藤真一は2年間のパリ留学を経て1960年(昭和35年)に帰国し、東京の文藝春秋ギャラリーで初の個展を開催します。パリを離れるとき、藤田嗣治から、「日本に帰ったら秋田や東北の特性を知り自分なりの絵を描きなさい」と助言を受 …
兵庫県出身。笹倉鉄平は、「光の情景画家」として知られ写実的で光にあふれるファンタジーな世界を表現し、その癒し系の絵は老若男女を問わず幅広い支持者をもっています。画家としての活動を始めてからこれまでに、220点以上の版画を …
佐藤勝彦は、旧関東州大連に生まれ、7歳の時に岡山県賀陽町(現吉備中央町)に引き揚げます。岡山県立高梁高等学校卒業後、1958年鳥取大学学芸学部入学。在学中の1960年に重い結核を患い入院しますが、回復し、それからは前向き …
下村観山が最初に師事したのは祖父の友人、藤島常興でした。常興は狩野芳崖の父狩野晴皐の弟子であったため、その息子芳崖に観山を紹介します。観山初期の号「北心斎東秀」を授けたのは芳崖とされ、1883年(明治16年)10歳の時に …
ジャン・ジャンセンは、フランスで活躍したアルメニア人画家。デッサン力に秀で、数多くのコンクールで受賞しています。1967年以降、パリ、パームビーチ、シカゴ、東京、ヨハネスブルグ、大阪、アントニーなど、世界各地で作品を発表 …
杉山寧は、1969年に日展常務理事。1974年に日展理事長。この間、1970年に娘婿の作家三島由紀夫が割腹自殺をして世間を騒がせます。1976年西ドイツより十字勲章を授与。1977年東京国立近代美術館評議員。1991年に …
須田剋太は、司馬遼太郎の「街道をゆく」の挿絵を描き、かなりの名声を得ました。力強い自由なタッチを作風とします。1906年(明治39年)埼玉県吹上町に生まれます。父親は教師でした。病弱でおとなしい子供時代を過ごし、中学卒業 …
芹沢銈介は、染色工芸家として有名な人物です。静岡県静岡市葵区に生まれます。重要無形文化財「型絵染」の保持者(人間国宝)。文化功労者。静岡市名誉市民。芹沢銈介は、民芸運動の提唱者である柳宗悦とともに日本各地に赴き民芸品や民 …
千住博は、日本画とその技法を世界に広め、真に国際性のある芸術分野とするために、絵画、講演、執筆など幅広い活動を行っています。自然との共生を日本文化の基本理念とし創作の指針としています。1995年代表作『ウォーター・フォー …
曽宮一念は、東京都日本橋区漬町(現中央区日本橋浜町)に生まれます。本名下田喜七(しもだきしち)。大下藤次郎、藤島武二、黒田清輝に師事します。曽宮一念は、東京美術学校卒業後、山下新太郎、中村彝に手ほどきを受けます。1914 …
高塚省吾は、岡山市に生まれ、東京芸術大学に入学し1953年に学位を取得。在学中、梅原龍三郎、林武、硲伊之助らに師事。同年、芸大教授であり日本美術会の委員長を務めていた硲伊之助のすすめで第7回日本アンデパンダン展(日本美術 …
竹内栖鳳は、戦前に活躍した日本画家。現代日本画のパイオニア的存在。画業は半世紀にわたり戦前の京都画壇を代表する画家でした。1909年(明治42年)京都市立絵画専門学校 (現京都市立芸術大学)開校と同時に教授となり、192 …
竹久夢二は、魅力的な女性を描いた作品を数多く残しその詩情豊かな作品は『夢二式美人』と呼ばれました。大正ロマンを代表する人物とされ、大正の浮世絵師と称されたりもします。その他子供向けの月刊誌や、詩文の挿絵も手がけました。竹 …
田崎広助は、1917年、福岡県師範学校(現福岡教育大学)第2部卒業。在学中、坂本繁二郎、安井曾太郎に指導を受けます。関西美術院にも通いました。戦後広稜会を設立。東郷青児らと「日伯現代美術展」(伯は伯刺西爾、ブラジルの意) …
田辺至は、1886年(明治19年)12月21日東京神田に生まれます。東京美術学校で後進の指導をしながら絵画制作を続け、1926年(大正15年)第8回帝展に出品した「裸体」で帝国美術院賞を受賞します。田辺至は、1927年( …
谷内六郎は、9人兄弟の6番目として東京恵比寿に生まれます。父、久松の生家は富山県北蟹谷村(現小矢部市)にありました。駒沢尋常高等小学校卒業後、見習い工として働き、独学で絵の勉強をします。戦後、谷内六郎は同じ漫画家の鈴木善 …
田渕俊夫は、東京都江戸川区に生まれます。1965年東京芸術大学美術学部日本画科卒業。1967年、同大学大学院日本画専攻修了。在学中、平山郁夫に師事します。田渕俊夫は、1968年再興第53回日本美術院展に入選、1982年と …
鶴田一郎は、専門的に絵を描き始めた頃は西洋文化の影響を受け、写実的な作品を描いていました。しかし「日本人であること」を意識するようになり、琳派や弥勒菩薩などの仏教美術、浮世絵の「美人画」「女絵」といった日本的な美意識に傾 …
寺内萬治郎は、明治42年、白馬会葵橋洋画研究会で黒田清輝に師事します。東京美術学校では藤島武二に師事。大正7年文展初入選。大正11年耳野卯三郎らと金塔社を設立。大正14年第6回帝展に出品した『裸婦』が、昭和2年第8回帝展 …
本名東郷鉄春。東郷青児の描く甘美で魅惑的な女性像は、書籍、雑誌、ラッピングなどに数多く使われ、昭和の時代に美しい女性を見事に描く巨匠として戦後有名になります。東郷青児は、1957年(昭和32年)岡本太郎と日活映画「誘惑」 …
樋笠数慶は、1916年(大正5年)3月18日、香川県高松市に生まれます。高松第一中学校を卒業後、郷倉千靭に師事。昭和16年、第28回院展出品作「雨季」が初入選。戦後は日本美術院に併設された研究会「和泉会」で前衛美術や抽象 …
三岸節子は、女子美術学校(現 女子美術大学)の2年に編入しトップで卒業。1924年に三岸好太郎と結婚し、1930年に黄太郎が生まれますが1934年に夫は他界してしまいます。三岸節子は、太平洋戦争中も疎開せず、厳しい生活の …
会津八一は、新潟県で生まれ病気で体が弱かったこともあり中学生の頃より俳句に興味を持ちます。奈良旅行をきっかけに短歌にも興味を持ち「南京余唱」や「山光集」「寒燈集」などを出版します。会津八一は、美術史学の研究法なども独学で …
青山杉雨は、愛知県生まれで、東京の向島に上京しています。もともとは行草を得意としていましたが、戦争を挟んで古文や隷書などの研究にも熱心に取り組みます。青山杉雨は、とても読書家としても知られ、亡くなるまでたくさんの書籍を読 …
芥川龍之介は、東京の京橋区出身の小説家であり、実家は牛乳製造販売業を営んでいたそうです。母親が精神的な病にかかったことで、母方の実家の芥川家に預けられ祖母に養育されます。芥川龍之介の代表作になる「羅生門」は1915年に発 …
池田蕉園は、東京出身の女性浮世絵師として活躍した人物であり、女性です。小学生の頃より、草双紙の絵を石版に描くなど、才能に奏でていた部分強く、慶應義塾で学業も学び、アメリカのラトガース大学に留学して鉄道を研究していた時期も …
礒田湖龍斎は、江戸時代の中期に活躍した浮世絵師です。もともと江戸小川町の旗本の土屋家の浪人になり、両国の薬研堀に住居していたそうです。礒田湖龍斎は、名前が途中で変わっており、鈴木春広や湖龍斎春広などと号していた時期もあり …
江戸時代中期の画家。京都の青物問屋(野菜の問屋)の跡継ぎとして生まれた伊藤若冲は、家業を継ぎつつも絵を描くことに熱中し、40歳になったときに家督を譲って画家としての道を歩み始めました。伊藤若冲は、専業画家になる前から、家 …
伊藤博文は、山口県の農家で生まれ、伊藤家に奉公をしていた経緯もあり、養子になり身分を獲得しました。その後、高杉晋作などが学んだ「松下村塾」に入門し、吉田松陰の教育を受けます。伊藤博文は、当時からとても優秀だったため、イギ …
岩佐又兵衛は、江戸時代の初期に活躍した絵師です。2歳のときに、父親は織田信長に敗れ亡くなり、母親は六条河原で処刑、乳母に救われて京都で育ちます。大阪の陣の頃、福井藩主の松平忠直に招かれ、20年近く住みながら絵を描きます。 …
上村松篁は、京都を中心に活躍した画家であり、母親(上村松園)も日本画家だったことから子供の頃から絵を描くことがとても好きな少年でした。ただ、ほとんどを二階の画室にこもっていたこともあり、二階のお母さんと呼んでいた時期もあ …
歌川国貞は、江戸の後期に活躍した、浮世絵師です。本名を角田庄五郎といい、後に三代目「歌川豊国」と名乗るようになります。描く絵の特徴として、面長イノシシ首型の美人画が多く、1万点以上の作品を残したことで知られています。歌川 …
歌川国芳は、美人画を描いていた絵師としては、そこまで知名度が高くないもののファンも多く傑作を残している人物です。江戸末期の浮世絵師になり、枠に留まることを知らない自由な画風も人気がありました。歌川国芳は、江戸日本橋にうま …
歌川広重は、江戸時代の後期に活躍した浮世絵師になり、当時の旅行ブームに乗っかり東京から京都までの東海道すべての宿駅を描いた「東海道五十三次」が最も有名な作品として、高く評価されています。実は武家の出身であり、生粋の江戸っ …
歌川豊国は、江戸時代に活躍した浮世絵師になり、本名は倉橋熊吉といいました。江戸の三島町に生まれ木彫りの人形師の息子として生まれます。幼少期に歌川派のもとで学んだこともあり、その後、歌川豊国の名前を名乗るようになりました。 …
大田垣蓮月は、江戸時代の末期から明治にかけて活躍しました。京都で生まれ、生後10日には養女となり、知恩院で生まれ育ちます。出家したあと、養父が亡くなったタイミングで引っ越し、その後転々とした生活をしました。大田垣蓮月は、 …
大山忠作は、福島県二本松市出身の画家です。代表作は「五百羅漢」や「池畔に立つ」などになり、第2回の日展で初入選をはたします。人物画はもちろん、宗教的な作品もあり、花鳥風月などの題材をメインに描きました。大山忠作は、あくま …
岡倉天心は、横浜で生まれたものの、もともとは福井県出身の武士になり、家族で東京に移転しました。9歳のとき母が亡くなり葬儀をおこなった長延寺に預けられると、英語なども学びます。1882年に専修学校での教官になり、学校創立の …
奥村政信は、江戸時代前期に活躍した浮世絵師です。源八郎と呼ばれ人生のうち50年間もさまざまな作画を作り続けました。ジャンルの幅も広く、丹絵や紅絵、漆絵などの浮世絵を描き、画風を常に変化させていました。奥村政信は、そのとき …
織田一磨は、1882年に東京府芝区にて誕生し、その後、大阪に転居しています。主に明治から唱和にかけて活躍した芸術家でもあり、版画家として知られています。洋画は川村清雄から学び、石版は金子政次郎より学び、京都の新古美術展に …
尾竹竹坡は、明治から昭和にかけて活躍した、浮世絵師であり日本画でも有名な人物です。新潟市で生まれ5歳の頃には襖絵などを描き、6歳には花鳥画を丁寧な執筆で書き上げるなど、早くからその才能を認められ神童と呼ばれていました。尾 …
落合芳幾は、幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師です。1833年に日本堤下の茶屋にて生まれ、質屋に奉公していたものの子供の頃から絵に強い興味を持っていたそうです。1849年には歌川国芳に入門し、安政の大地震にて妻子を失っ …
小野竹喬は、1889年に岡山県の笠岡市にてうまれ、その後京都に上り絵画専門学校の別科に入学します。1916年には文展にて「島二作」が特選を受賞するなど早くから高く評価されました。小野竹喬は、近代的な日本画を代表する画家で …
恩地孝四郎は、明治から昭和にかけて活躍した、版画師であり、写真家や詩人など多様な才能を生かし成功した人物です。なかでも創作版画は先駆者のひとりとしても知られており、日本に版画の認知を高めたことでも知られています。恩地孝四 …
懐月堂安度は、詳しい生没年不詳の画家になり、江戸時代の初期に活躍したと考えられている浮世絵師になります。江戸に生まれ浅草の蔵前に住んでいました。懐月堂安度は、弟子を多く抱えており、吉原の遊女などを題材にした肉筆画の美人画 …
勝川春章は、江戸時代中期に活躍した浮世絵師です。役者絵を中心に、特徴をしっかりと捉えた似顔絵のような作品を次々に生み出したことでも知られています。1774年に誕生しますが、本姓などはわかっていません。勝川春章は、絵を宮川 …
勝川春亭は、江戸時代の後期に活躍した浮世絵師です。勝川春英の門人でもあり、武者絵や役者絵にとどまらず、美人画や名所絵なども残し、さまざまな絵のジャンルに挑戦したことでも知られています。勝川春亭は、挿絵も数多く残しています …
勝川春英は、江戸時代に活躍した浮世絵師になり、家系などの詳しい情報はわかっていません。17歳で初作を描くと役者絵なども多く、たくさんの作品を世に出しました。1792年には「大坂中の芝居」と呼ばれる四枚続を版行し、役者大首 …
鏑木清方は、明治時代から昭和に活躍した美人画家として知られ、生涯にわたり、江戸や東京に関する作品を数多く残したことでも知られています。東京の神田で生まれ、父親はジャーナリストだったそうです。最も有名なものといえば、「築地 …
江戸狩野派の始祖として知られる絵師といえば「狩野探幽(かのうたんゆう)」ではないでしょうか。京都で生を受け、狩野孝信の長男として誕生しました。狩野探幽は、徳川家御用達の絵師として活躍するなど、たくさんの代表作を世に送り続 …
川合玉堂(かわいぎょくどう)といえば、日本の山や河などの自然の美しさを愛し数々の作品を残してきた画家です。絵の一つ一つから温かさが感じられ、風景を後世にしっかりと伝えてくれます。おおらかさも感じられるのは玉堂の人柄あって …
川上澄生は、1895年に神奈川県で生まれた日本の版画家です。幼少期から芸術に触れていたわけではなく、青山学院の高等科に在籍していたときに木口モクバンの合田清と出会います。主に、オランダ文化が日本に取り入れられたことが、作 …
川瀬巴水は、日本の大正時代から昭和にかけて活躍した浮世絵師です。版画家としての一面もあり、とても人気がありました。当時浮世絵は衰退傾向にありましたが、復興させるために尽力したことでも知られています。川瀬巴水は、近代風景画 …
河東碧梧桐は、愛媛県の温泉郡出身になり教授の家の五男として生まれます。子供の頃は、正岡子規が友人だったそうです。その経緯もあり、高浜虚子と並び呼びされていたこともあります。1902年に正岡子規が亡くなったことで、河東碧梧 …
河鍋暁斎は、幕末から明治にかけて活躍した、浮世絵師でもあります。日本画家として高く評価されている人物ですが、反骨精神が強く風刺画などを数多く残しています。自分のことを「画鬼」と表現することもあります。もともとの出身は茨城 …
川端龍子は、和歌山県で生まれ、当時空に舞っている色とりどりの鯉のぼりを見て躍動感を覚えたといいます。そこから職人の下に通い詰め、どう描いたらいいのかを研究したといいます。そこで自分もこんな絵を描きたいと思い弟子となります …
菊池契月は、明治後期に活躍した日本画家になります。1879年に長野県で生まれ、少年時代より絵を描くことを好みました。その後菊池契月は、1892年に渋温泉に住んでいた児玉果亭のもとに入門し「契月」の名前を得ます。菊池芳文の …
日本画家の「木村武山」といえば、明治時代から昭和初期に活躍した人物です。幼い頃から絵を描く才能に恵まれていたともいわれていますが、実業家であった父親の影響も強く受けています。木村武山は、「日本を代表するカラリスト」とも称 …
幸田露伴は、東京の江戸で生まれ父親は幕臣の真田利三だと言われています。もともとは病弱だったこともあり、生後27日医者の世話になり、何度も生死をさまようようになります。幸田露伴は、16歳で電信修技学校に入学すると電信技師と …
小倉遊亀は、1895年に滋賀県で生まれ、日本で初めて日本美術院の同人に認められた人物です。日本を代表する画家としても知られており、教諭なども務めました。小倉遊亀は、日本芸術院会員になり、安田靫彦に師事していたことでも知ら …
小林清親は、明治時代に活躍した浮世絵師になり、江戸から移り変わっていく姿を丁寧に描いたことでも知られています。主に版画も多くあります。江戸の本所にて幕臣の子供として生まれ、15歳で父親が亡くなります。鳥羽・伏見の戦いにも …
小室翠雲は、栃木県に生まれ、日本画家として活躍しました。もともと父親は日本画家だったこともあり、父親の影響を受けた部分もあります。小室翠雲は、南画を田崎草雲から学び、詩文などを山下雪窓にて学ぶようになります。その後、上京 …
酒井三良は、福島県に生まれた日本画家です。小学校を卒業したあと、上京して叔父のもとで中学に入学するも退学。その後酒井三良は、もともと興味を持っていた絵画制作を自己流で始めるようになります。具体的にどのように美術を学んだの …
酒井抱一は、神田の小川町にある、姫路藩の別邸の4男として生まれました。兄に何か合った場合に、保険としての役割があり、参勤交代のときなど留守として仮養子に立てられるなどを経験しています。その後酒井抱一は、忠以に長男が生まれ …
榊莫山は、京都府出身の日本の書家になり、小学校のときには書に目覚めたと言われています。中学生になると油絵を習うようになり、20代になる頃には書道界の最高賞を受賞することになります。書道界では、伝統や継承をとても重んじるこ …
榊原紫峰は、京都で生まれ、美術工芸学校などで学び若いうちから才能を評価され頭角を表わすようになります。京都市の絵画専門学校の教授も経験し、日本芸術院恩賜賞を受賞するなど、輝かしい経歴を残しました。なかでも花や鳥などに深い …
鈴木春信は、1725年に生まれ、江戸時代の中期に活躍した浮世絵師です。浮世絵の世界の発展に勤めた人物といっても過言ではありません。もともとは京都で学び、その後江戸に移り住みました。鈴木春信は、比較的裕福な家で生まれ、錦絵 …
僧侶でもあり水墨画を描いた人物としても知られている「雪舟(せっしゅう)」について、誰もが一度は名前を効いたことがあるのではないでしょうか。幼い頃からその才能を発揮するもどうして僧侶の道を進むようになったのか?意外と知らな …
高橋泥舟は、1835年に江戸の山岡正業の次男としてこの世に誕生しました。忍心流の名家になり、槍の修行を受けていたそうです。上京に達しているといわれるほど、高い腕を持っていたそうです。徳川慶喜が、官軍の使者として選んだ人物 …
明治・大正・昭和の3代に渡って活躍した、小説家であり俳人として有名な「高浜虚子(たかはまきょし)」をご存知でしょうか。雑誌の「ホトトギス」の発行に尽力したことでも知られ、世界で活躍する多くの俳人を育てた人物でもあります。 …
竹久夢二は、1884年に生まれ、明治から昭和にかけて活躍した日本画家です。美人画で有名な人物になり「夢二式美人」とも呼ばれるようになりました。竹久夢二は、大正ロマンを絵で表現するのに長けており、浮世絵師としても高く評価さ …
渓斎英泉は、江戸時代に活躍した日本の浮世絵師になり、12歳の頃より狩野典信の弟子として画技を学ぶようになります。その後、15歳のときに元服となり江戸の屋敷に奉公するも不向きだったそうです。喧嘩をしてしまい、職を追われるよ …
到来の俳句の形に縛られることなく自由律俳句の代表者としても知られる「種田山頭火(たねださんとうか)」は、多くの人に愛されました。実際に国内に句碑が500基以上残されており、58年の短い人生のなかでたくさんの功績を残した人 …
江戸時代後期に活躍した南画家でもあり、日本の各地を描いた人物といえば「田能村竹田(たのむらちくでん)」ではないでしょうか。代表作も数しれず、なかには重要文化財に指定されているものもあります。田能村竹田は、現在の竹田市の岡 …
生涯が謎に包まれた人物でもあり、絵師として確かな実績を残し続けた「俵屋宗達」を知っていますか?町人だったこともあり生没年不詳であること、絵師として大出世した人物でもあります。俵屋宗達の作品を見ると「あ、これ知ってる!」と …
月岡雪鼎は、1726年に生まれ、江戸の中期から後期にかけて活躍した浮世絵師です。現在の滋賀県で生まれ、その場所に小高い丘があったことで山の名称をとり“月岡”としたという伝説が残されています。月岡雪鼎の父親は医者だったこと …
月岡芳年は、最後の浮世絵師としても知られている人物になり、幕末から明治にかけて活躍しました。江戸の新橋に生まれ、子供の頃より画業を志しました。月岡芳年は、12歳になったときに、歌川国芳に入門し、15歳の若さで画壇にデビュ …
津田青楓は、1880年に京都府で生まれ、華道家の去風流家元の息子です。小学校を卒業すると、京都の呉服問屋にて奉公します。その後、四条派の日本画を師事するようになり、京都市立染織学校に入学。卒業したあとに助手を勤め、関西美 …
椿椿山は、江戸の小石川天神にて生まれ、江戸時代の後期を中有心に日本の文人画家として活躍しました。人物画や花鳥画を得意としており、柔軟な筆遣いや温かみのある色彩などが特徴だと言われています。椿椿山は、7歳にして父親と死別し …
坪内逍遥は、明治時代を中心に活躍した、小説家であり、評論家、翻訳家などの多彩な才能の持ち主です。岐阜県で生まれ、父親は尾張藩の手代を務め、明治維新とともに名古屋の笹島村に戻ることになりました。漢学については両親の影響があ …
東洲斎写楽は、江戸時代に活躍した浮世絵師です。主に歌舞伎を題材にしたものが多く、役者絵なども含め140枚もの作品を残しています。詳しい経歴などはわかっておらず、藩お抱えの能役者だったのでは?と考えられています。東洲斎写楽 …
日本最後の文人画家として知られる「富岡鉄斎(とみおかてっさい)」といえば、誰でも一度は耳にしたことのある有名人なのではないでしょうか。主に明治時代・大正に活躍した人物になります。生涯文人としての人生を貫き、世界中からも高 …
豊原国周は、幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師です。江戸京橋の大島や九十郎の次男として誕生し、とてもやんちゃな性格で近所からも苦情が来ることがあったそうです。豊原国周は、子供の頃から、画材にとても興味を示しており、長谷 …
鳥文斎栄之は、江戸時代の後期に活躍した浮世絵師です。長男として生まれ、17歳のときに家督を継いでいます。狩野典信に師事したあとに、文竜斎に師事しており、早い段階から絵を初めていました。1785年の「其由来光徳寺門」が挿絵 …
鳥居清長は、江戸時代に活躍した浮世絵師です。江戸の本材木町の書肆白子屋関口市兵衛の子として誕生し、紅摺絵にてデビューしました。1767年頃から、鳥居派の伝統的な筆使いを使った役者絵を描くようになります。なかでも美人画が特 …
永井荷風は、日本の小説家・翻訳家としても知られた人物です。メガネの姿が印象的です。もともと東京の小石川区にて生まれ、父親はブリジストン大学などの留学経験のあるエリートでした。永井荷風は、学生時代に、芝居好きな母親の影響も …
長沢蘆雪(ながさわろせつ)という絵師を知っていますか?なんでも絵師としての実力は認められていたものの、ちょっと皮肉屋で愛想のない性格だったこともあり賛否両論な人物としても知られています。長沢蘆雪は円山応挙の高弟でもあった …
中村貞以は、1900年に大阪の船場にて誕生し、問屋を営む両親の4子として生まれました。幼少期のときに両手に大やけどをおったこともあり、指の自由を失う経験をしています。そのため、絵筆を両手で挟んで描くスタイルだったそうです …
中村不折は、明治から大正・昭和にかけて活躍した画家でもあります。日本画だけに限らず、書道会や洋画界などの幅広いジャンルに精通していること、人気のある作品を数多く残しています。夏目漱石の「吾輩は猫である」の挿絵を担当したこ …
夏目漱石は、日本の小説家でもあり評論家、英文学者などのさまざまな才能を持ち合わせた人。教師なども経験し、明治の末期から大正初期にかけて近代日本文学を支えた一人です。1867年に江戸に生まれ父親は周辺を治めていた名主として …
西川寧は、20世紀の日本を代表するといっても過言ではない、書家でありい中国文学者です。書道史的研究では文学博士を取得しています。西川春洞の三男として誕生し、昭和の三筆と呼ばれました。西川寧は、1933年に泰東書道院・謙慎 …
橋口五葉は、明治から大正にかけて活躍した木版の画家です。もともと鹿児島県に生まれ1899年に状況します。そこでは橋本雅邦に入門し、東京の美術学校に入学して主席で卒業します。橋口五葉は、文学書の装幀作家でもあり、浮世絵師と …
長谷川等伯は、能登の七尾に生まれ、20代の頃から日蓮宗関係の仏画や肖像画などを描きました。主に安土桃山時代から、江戸時代の初期に活躍した絵師としても知られています。長谷川等伯は、1571年に上洛して狩野派などの画風を学び …
菱川師宣は、1618年に江戸に生まれた画家です。菱川派の祖としても知られています。浮世絵の確立者でもあり祖としても高く評価されています。菱川が活躍する以前は絵入本の挿絵程度の役割しかなかった浮世絵版画を鑑賞向けにするなど …
平塚運一は、島根県出身の版画家であり、名誉市民に認定された人物です。石井柏亭にて洋画講習会に参加したことがきっかけになり、上京しデッサンに励みます。その後、版画技術を会得し二科展にて版画の作品は入選して一躍有名になります …
前川千帆は、1888年に生まれた、日本の版画家であり漫画家としても知られています。京都の石田家にて生まれ1904年に父をなくします。前川千帆は、関西美術院にておうがを学ぶと、東京に行きパック社にて勤めるようになります。新 …
松林桂月は、1963年に山口県の萩市で生まれた日本画家です。妻の松林雪貞も日本画家として知られるなど夫婦で有名な人物でもありました。松林桂月は、“最後の文人画家”としても知られ、謹直な描写を基礎にしながら、近代的な要素を …
水野年方は、明治時代に活躍した日本画家であり浮世絵師として知られています。月岡芳年の門人としても知られており、美人画や歴史画などの浮世絵を描きました。水野年方は、左官の長男として生まれ、生涯で絵を好み漆黒を使い、絵を描き …
宮川長春は、天和2年に生まれ、浮世絵師として活躍しました。菱川師宣などに絵の基礎を学び、狩野春湖などに師事した時期もあるそうです。版画制作を一切行わないのも特徴になり、常識などの形にとらわれない描き方をしていました。女性 …
山口蓬春は、北海道生まれの日本画家です。1913年に東京に生まれ松岡映丘に師事すると、大和絵を習得します。1924年には新興大和絵会に参加し、1926年には美術院賞受賞などの数々の実績を残しました。その後、日本芸術院の会 …
山本鼎は、明治から昭和にかけて活躍した、日本の版画家でもあります。また色彩豊かな洋画家としても知られ、教育者としての一面も持ち合わせていました。山本鼎は、愛知県に生まれ、16歳以降は長野県の上田市に住んでいました。美術の …
楊洲周延は、江戸時代から明治にかけて活躍した浮世絵師として知られています。幕末期ならではの混乱をはさみつつも、45年間の長い間、たくさんの作品を残しました。なかでも3枚続の風俗画を得意とするなど、迫力のある作品も数多く残 …
吉川英治は、日本の小説家としても知られており、主に明治から昭和にかけて活躍しました。当初から作家として活動していたわけではなく、職を転々としたあとに作家になり「鳴門秘帖」で一躍有名な人物になりました。吉川英治は、1892 …
吉田茂は、日本の外交官でもあり政治家としても知られている人物です。内閣総理大臣に就任すると、優れた政治感覚や強いリーダーシップを発揮して日本を奮い立たせました。1878年に高知県にて生まれ板垣退助の腹心だった竹内綱の五男 …
吉田博は、明治から昭和にかけて活躍した日本の洋画家です。版画家としても作品を数多く残しています。吉田博は、風景画を描いたことでも知られており、昭和を代表する第一人者として活躍しました。久留米市に生まれ、図画教師であった吉 …
若山牧水は、宮城県の医師の家の長男として誕生します。中学生の頃に短歌と俳句を始め18歳で、牧水として号を改めます。若山牧水は、1904年には早稲田大学に入学すると、「早稲田の三水」と呼ばれるようになります。1908年には …
明治から昭和にかけて活躍した日本画家といえば「堂本印象(どうもといんしょう)」は外せません。京都に美術館も構えるなど、時代を超えて多くの人に愛されてきた人物でもあります。色彩の美しさに目を奪われてしまうような素晴らしい作 …
棟方志功(むなかたしこう)といえば黒縁メガネが印象的な絵師のでもあります。青森県に記念館もあることから、一度は名前を聴いたことのある絵師なのではないでしょうか。世界の棟方とも呼ばれたように、その才能を高く評価されていたこ …
日本画家を代表する人物としても高く評価されているのが「横山大観(よこやまたいかん)」です。第一回文化勲章を受賞したこと、東京都の上野に横山大観記念館もあるなど、時代を超えて愛され続けています。横山大観とはどのような人物だ …
渡辺華山(わたなべかざん)といえば、画家としてはもちろん藩士や学者としても活躍するなど、その生い立ちを知るととても奥深い人物なのがわかると思います。生涯の最後は切腹をして亡くなるなど49歳の人生とは思えないほどの歴史が残 …
青木木米は江戸の後期に活躍した、京都出身の陶芸「京焼」や絵師として有名な人物です。なかでも青木木米は煎茶器に優れていたこともあり、京焼の幕末三名人と称されました。青木木米は、もともとは裕福な家で生まれ育ちましたが、陶説( …
荒川豊蔵は人間国宝としても名高い人物でもあり、昭和を代表する美濃焼で有名になった人物です。荒川豊蔵の出身は岐阜県の多治見市になり、兵庫、名古屋へと拠点を移し生活しました。星岡窯にいたときに、美濃焼の美しさに惹かれ、いつか …
飯塚小玕斎は東京の本郷区で生まれ、東京の美術学校を卒業します。その後、飯塚小玕斎は戦争のため入隊し出征、疎開先の栃木県にある高等女学校にて約10年間講師を務めます。竹工芸家として従事した経験から、人間国宝として認められる …
飯塚琅玕斎は栃木県出身の竹工芸家として知られた人物です。飯塚琅玕斎は父親より技術を学び成功な技法や、独創的な世界観、斬新なデザインなどもあり有名になりました。竹細工といえば、日常生活で使うものでしたが、それを芸術として引 …
板谷波山は、茨城県出身、明治~昭和にかけて活躍した陶芸家として知られています。茨城県の名誉県民でもあり、文化勲章受章者です。板谷波山は、東京美術学校で基礎を学び、石川県の工業学校の主任教諭として採用され、これをきっかけに …
井上萬二は、佐賀県の有田町で生まれ、有田焼を世に広めた重要な役割を担った人物です。日本工芸会参与としても認定され、人間国宝としても知られています。井上萬二は、生家が窯元だったものの、一時は海軍の飛行予防練習生となります。 …
今泉今右衛門は、佐賀県の陶芸家でもあり、江戸時代からの伝統を今に守り続けている人物です。鍋島焼は、一子相伝の技法としても知られており、今は14代目が引き継いでいます。色鍋島と呼ばれる品格のある美しい色彩や、赤の調合が特徴 …
奥田頴川は、江戸時代中期に誕生した陶芸家としても知られ、清の侵略のときに亡命した人物の末裔ではないかと考えられています。奥田頴川は、質屋を継ぐも、文化活動に熱心な人物でもあり陶芸に熱を上げていたのだとか。京焼では初めての …
音丸耕堂は、香川県高松市生まれの漆芸家でもあり、革命を起こした人物としても知られています。昭和17年に彫漆技術を用い出店した文展で特選を受賞します。当時は、色漆を何度も重ねて、今どきの流行りを取り入れた独特の作風からも注 …
加藤唐九郎は、愛知県の春日井市出身の陶芸家であり、明治から昭和にかけて活躍しました。両親が窯業を営んでいたこともあり、幼少期より自然と馴染み、のちに父親の製陶工場の一部を譲り受けるまでになります。加藤唐九郎は、一時期、助 …
河井寛次郎は、島根県出身の陶芸家でもあり、随筆や書物、詩などの幅広い分野で活躍した人物です。もともとは大工の家出身になりますが、師匠と呼べる人物はおらず学校で教育を受けた珍しい陶芸家としても知られています。河井寛次郎は、 …
川上不白は、和歌山県の家臣の家で生まれ、16歳のときに表千家七世如心斎天然宗左の内弟子となります。川上不白は、江戸千家の流祖としても知られる人物になり、32歳のときに江戸に茶の文化を広げたいと下り、駿河台に門戸を開きます …
川喜田半泥子は、大阪府で生まれ、伊勢の豪商の裕福な家庭で育ちます。ただ、1歳のときに祖父や父を亡くしたため1歳で当主となります。母も18歳で未亡人になったことで実家に帰り、祖母のもとで育てられることになります。川喜田半泥 …
北大路魯山人は、京都府出身の陶芸家でもあり、もともと士族の家柄でした。ただ、位が低かったこともあり、生活は裕福なものとはいえませんでした。北大路魯山人は、義理母からの虐待もあり、近所の人が養子話を持ちかけ、福田房次郎とし …
黒田正玄は、千家十職に数えられる役割の一つになり、先祖代々が襲名して受け継がれてきました。黒田正玄は、茶道具をメインに製作しており、千家に伝わる由緒正しき家系でもあります。現在は十三代まで続いています。初代黒田正玄は天正 …
駒澤利斎は、千家十職の一人でもあり、棚や香合などを制作する「指物師」として、代々受け継がれてきた名称になります。初代駒澤利斎の情報については殆ど残されていませんが、二代目より注文を受け、指物を製作していたと考えられていま …
近藤悠三は、陶芸家として人間国宝に指定されている人物になり、京都の清水寺下出身です。実際に祖父は、清水寺の地侍として務めていたと言われています。近藤悠三は、陶磁器の試験場にて助手として勤務したあと、窯業科学などを学びます …
酒井田柿右衛門は、佐賀県生まれの陶芸家でもあり、西部伝統工芸展に何度も初入選を果たし、有田焼の陶芸協会の会員や、日本工芸会正会員として活躍しました。酒井田柿右衛門は、数々の展覧会を開き、現在は15代目に当たります。初代の …
柴田是真は、越後出身の宮彫師の子供として婿養子になります。11歳のときより職人気質について学び、蒔絵についての知識や技術を身につけていきます。柴田是真が16歳のときは、図案に頼らない仕事をするために、四条派の絵の技術も身 …
清水卯一は、京都府出身の陶芸家であり、もともと陶磁器の卸問屋の長男として誕生しました。父が若くして亡くなったため、家を継ぐことを目的に商業学校に入学。中退し石黒宗磨のもとで弟子として陶芸を学ぶようになります。ただ、戦争も …
清水六兵衛は、陶磁器で代々受け継がれてきた名前です。初代清水六兵衛は、大阪府の高槻市の農家で生まれ京都にて陶業を学びました。特に茶器をメインに制作していたようで、黒楽茶碗なども制作しています。現在は8代目になり、京都出身 …
松花堂昭乗は、和泉の国境で生まれ、江戸時代の真言宗の僧侶として活躍した人物になります。松花堂昭乗は、文化人としても有名な人になり、陶芸はもちろん、茶道や絵画、書道などに長けていたそうです。なかでも能書家としても高く評価さ …
鈴木藏は、岐阜県出身の陶芸家でもあり、重要無形文化財保持者としても高く評価されています。もともと出身地が美濃焼の産地になり、父親も陶磁器試験場の技師として活躍していました。鈴木藏は工業高校を卒業後、陶芸部試験室の助手とし …
鈴木盛久は、寛永2年に御用鋳物師となり、仏具、梵鐘の製造に携わります。南部鉄器の伝統継承者として受け継がれ、それぞれ名前とは別に鈴木盛久の名前が受け継がれています。鈴木盛久は、昭和21年おり、日展に何度も入選して、岩手工 …
千家十職とは、茶道に関わる仕事をしている人で、三千家に出入りしている人の仕事を取りまとめた尊称のようなものです。例えば、塗師もそうですし茶器を作る陶芸家、指物師なども存在します。茶会は、茶室で行われ独自の作法を持っていま …
千宗旦は、千利休の後妻連れ子だった小庵の子供として生まれました。10歳のときに家督争いを避ける目的で、利休の推薦から大徳寺に喝食として預けられるようになります。千宗旦はその後、千家再興が実現したことで、弟子とともに利休流 …
千利休は、戦国時代から安土桃山時代に活躍した、最も有名な茶人です。千利休は、茶湯の天下三宗匠とも呼ばれるようになり、多くの弟子を抱えていたそうです。そもそも千利休の名前は、禁中茶会において、町民では参加できないことから、 …
大樋長左衛門は、石川県金沢市出身の陶芸家になり、大樋焼の当主として君臨しています。大樋焼の個展を開くときはその名を使いますが、自由に個展を開いて楽しみたいときは、大樋年朗の名前を名乗っていたそうです。大樋長左衛門は、文化 …
高野松山は、熊本県出身の陶芸家でもあり、蒔絵の重要無形文化財に認定されています。もともと祖父は細川藩の儒者であり、父親は校長を務めるなど由緒正しい家庭として育ちました。高野松山は、13歳のときに漆工科の学校に入学すると、 …
高橋敬典は、山形県出身の茶湯、陶芸家としても知られている人物です。1938年に家業を継ぐものの、1950年には弟子入りし、「和銑平丸釜地文水藻」にて初入選を果たすまでに成長します。高橋敬典はその後、昭和天皇の山形県訪問時 …
高橋道八は、京焼(清水焼)の窯元として代々受け継がれている名前です。特定の人だけを指すものではないので、代替わりによって多少の違いもあります。初代の高橋道八が誕生したのは、1740年の頃になり、煎茶が最も栄えた時期だった …
沢庵宗彭は、名前からもわかるように臨済宗の僧侶であり、安土桃山時代から江戸時代にかけて活躍しました。沢庵宗彭は、兵庫県豊岡市で生まれ、父親は、但馬の重臣だったものの羽柴秀吉に攻められ滅亡し、浪人となります。希先西堂に師事 …
田原陶兵衛は、山口県の長門市で生まれた陶芸家です。長兄11代田原陶兵衛の跡継ぎがいなかったことで、家業を継いだとも言われています。田原陶兵衛は、歴代受け継がれてきた名前でもあり、茶器を中心に製造していること、高麗朝鮮陶器 …
富本憲吉は、大阪府の大地主の家に生まれ、子供の頃より絵を学べる環境で育ちます。東京美術学校に入学した際に、ウィリアム・モリスの思想に影響されロンドンに留学して卒業します。富本憲吉は留学中に、建築家の新家孝正と出会い、写真 …
濱田庄司は昭和に活躍した、比較的新しい時代の陶芸家でもあります。神奈川県の溝の口で生まれ、高等工業学校の窯業科に入学し、基礎全般を学びます。卒業したあとは、河合寛次郎と一緒に京都の陶芸試験場にて研究を行います。濱田庄司は …
藤本能道は日本の陶芸家でもあり、重要無形文化財保持者として知られています。もともと東京の新宿区に生まれ、東京美術学校工芸科図案部を卒業したあと、文部省の技術講習所に入ります。藤本能道は、1938年には富本憲吉の助手を務め …
藤原啓は、兄弟で陶芸家として活躍し他人物になり、岡山県の備前市出身です。名誉県民としてもその名を知られています。藤原啓は、子供のときから俳句や小説などの文才を発揮し1等を獲得。これをきっかけに上京し、編集部に勤務し担当を …
細川護熙は、日本の政治家として活動した人物になり、新聞社や参議院議員、県知事、内閣総理大臣など目覚ましい活動をしました。還暦のときに政界を引退し、その後は陶芸家や茶人などの活動を行っていたそうです。細川護熙の祖母の住まい …
松井康成は、長野県佐久市出身の陶芸家です。戦時中には茨城県に疎開し、卒業後に、奥田製作所にて陶芸の技術を学び習得します。松井康成は、大学を卒業したあとに月崇寺の住職になり、窯を作り研究を続けたといいます。とても探究心の強 …
宮川香山は京都に生まれ、もともと陶芸家である真葛宮川長造の四男でした。宮川香山は、19歳のときに家督を継ぐと、当時「香山」としての称号を受けていたことから、その名前で活動するようになります。色絵の陶磁器や磁器などはもちろ …
三輪休和は、山口県萩市に生まれ、人間国宝にも指定されている人物です。荻藩御用達の窯三輪家の次男として生まれます。三輪休和は、中学校に入学するも、職人に学問はいらぬという考えのもと、2年で退学してしまいます。その後か行に専 …
楽吉左衞門は千家十職の一つとして、楽焼を使った茶器を制作しています。初代の長次郎は、創設者の父のもとで生まれ黒軸をかけた茶碗制作で高い才能を発揮します。楽吉左衞門の「樂」は豊臣秀吉から与えられたものになり、楽焼の始まりに …
中村宗哲は400年以上の歴史を持つ、千家十職のなかで塗り師として知られています。中村宗哲はもともとは蒔絵を使った家具などを展開していたものの、次第に茶道具を専業とした事業展開へと変わっていきます。初代中村宗哲は、1617 …
飛来一閑は、一閑張細工師の分野として千家十職で認められている職種になります。この分野での創始者でもあり、代々が細工師として受け継がれてきた家系です。飛来一閑は、もともと非来家亡命明人の末裔であると考えられ、清の侵略の広が …
松田権六は、石川県金沢市で生まれた陶芸家でもあり蒔絵師としても認められた人物です。7歳のときに蒔絵に出会い修行を始め、東京美術学校漆工科にて技術を学びます。その後、松田権六は、母校に教授として就任し、教鞭をとったことでも …
古田織部は、武将でもあり芸術家として知られた人物になり、主に戦国時代から江戸時代にかけて活躍しました。茶道織部流の祖としても知られるようになり、織田の家臣として仕えた記録も残っています。古田織部は、武士としての実績は少な …
松平不昧は、出雲の松江藩の七代目を務めた人物になり、江戸時代の代表的な茶人として知られています。今でも一目置かれる存在として名高く伝えられています。当時、松江藩は財政が破産しており厳しい状態でした。そこに藩政改革に乗り出 …