浅井忠
浅井忠は、1898年東京美術学校(現東京芸術大学)にて教鞭をとります。1900年フランスへ留学し1902年に帰国。京都高等工芸学校(現京都工芸繊維大学)の教授副校長となります。翌1903年聖護院洋画研究所(1906年関西 …
浅井忠は、1898年東京美術学校(現東京芸術大学)にて教鞭をとります。1900年フランスへ留学し1902年に帰国。京都高等工芸学校(現京都工芸繊維大学)の教授副校長となります。翌1903年聖護院洋画研究所(1906年関西 …
1976年東京の大阪フォルム画廊で「有元利夫展-バロック音楽」を開催した後電通を退社することになります。その後、東京芸術大学非常勤講師として教鞭をとりながら制作を続けました。1978年、有元利夫は第21回安井賞展に出品し …
アンディ・ウォーホルは、1984年カーズのアルバムHeart beat CityからシングルHello Againのミュージックビデオを製作します。しかし、過激な内容が含まれていたため、放映が認められませんでした。アンデ …
1944年、梅原龍三郎は帝室技芸員に任命され、同年から東京美術学校でも教鞭をとるようになります。 1952年(昭和27年) 日本が主権を回復し、海外渡航ができるようになったため、東京美術学校教授を辞任して欧州に渡りヴェネ …
岡田三郎助は、1912年に藤島武士と本郷洋画研究所を立ち上げ、翌1913年久米桂一郎らと佐賀美術協会を組織します。さらに1919年、高村豊周、長原孝太郎、藤井達吉らと、装飾美術家協会を設立します。1926年、妻八千代と別 …
岡本太郎は年齢を重ねても創造への探究心が衰えず、生涯にわたって様々なイベントや展覧会に参加しました。80歳の時、ほとんどの自作を川崎市に寄贈し、市は美術館建設を計画しました。2003年(平成15年)、メキシコで行方不明に …
織田廣喜は前年の二科展に出品した「夕やけ空の風景」で1995年(平成7年)3月に日本芸術院恩賜賞を受賞します。同時に日本芸術院賞も受賞しました。同年11月には日本芸術院会員(洋画)に選任されます。翌96年、碓井町立織田廣 …
金子國義は、ジャンルを問わず幅広い表現活動をした画家です。「富士見ロマン文庫」(富士見書店)「ユリイカ」(1988~)「婦人公論」(1971年~1974年)など多くの出版物の表紙絵や挿絵で知られています。また、1998年 …
鴨居玲は、昭和43年二紀会会員に推挙されます。44年「静止した刻」で第十二回安井賞受賞。同年、昭和会優秀賞も受賞します。翌年から昭和52年までスペイン、フランスに滞在し、昭和48年第27回二紀展で文部大臣賞を受賞していま …
岸田劉生は、1908年(明治41年)東京高師附属中学校を中退し、東京赤坂溜池の白馬会葵橋洋画研究所で、黒田清輝に師事します。2年後の1910年(明治43年)文展に出品した作品2点が入選します。岸田劉生は、1911年(明治 …
絹谷幸二が油絵を習い始めたのは小学校1年生の時でした。1971年に東京芸術大学で学士号を取得後、イタリアに渡り、ベネチアで伝統的なアフレスコ画(「アフレスコ」はイタリア語で「フレスコ」の意)の技術を習得します。1974年 …
草間彌生は、1973年(昭和48年)親友でありパートナーでもあったジョゼフ・コーネルの死後、体調を崩し日本の病院で治療を受け入院します。1978年(昭和53年)に「マンハッタン自殺未遂常習犯」を発表し、作家としてのキャリ …
熊谷守一は、1967年(昭和42年)87歳の時文化勲章の内定を辞退します。多くの人が、訪れるのを憂慮してのことでした。1972年(昭和47年)勲三等叙勲も同じ理由で辞退します。1976年、生家の岐阜県恵那郡付知町に熊谷守 …
小磯良平は戦後、東京芸術大学の教授として、後進の育成に努めます。定年後、迎賓館(赤坂)大ホールの壁画「絵画」「音楽」を手がけ日本洋画界に大きな功績を残し、同大学名誉教授の称号を授与されました。1992年(平成4年)「小磯 …
小杉小二郎は、東京都滝野川区(現北区)に生まれ、父は美術学者小杉一雄、祖父は日本画家小杉放庵、叔父は工業デザイナーの小杉二郎という恵まれた環境で育ちます。1962年、叔父の影響もあり、日本大学芸術学部工業デザイン科に入学 …
小林和作は、1924年(大正13年)「夏の果実」が第2回春陽会にて初入選。1927年(昭和2年)春陽会に入会します。1928年(昭和3年)から1929年(昭和4年)にかけてヨーロッパ各地を旅行。1934年(昭和9年)春陽 …
斎藤真一は2年間のパリ留学を経て1960年(昭和35年)に帰国し、東京の文藝春秋ギャラリーで初の個展を開催します。パリを離れるとき、藤田嗣治から、「日本に帰ったら秋田や東北の特性を知り自分なりの絵を描きなさい」と助言を受 …
兵庫県出身。笹倉鉄平は、「光の情景画家」として知られ写実的で光にあふれるファンタジーな世界を表現し、その癒し系の絵は老若男女を問わず幅広い支持者をもっています。画家としての活動を始めてからこれまでに、220点以上の版画を …
ジャン・ジャンセンは、フランスで活躍したアルメニア人画家。デッサン力に秀で、数多くのコンクールで受賞しています。1967年以降、パリ、パームビーチ、シカゴ、東京、ヨハネスブルグ、大阪、アントニーなど、世界各地で作品を発表 …
須田剋太は、司馬遼太郎の「街道をゆく」の挿絵を描き、かなりの名声を得ました。力強い自由なタッチを作風とします。1906年(明治39年)埼玉県吹上町に生まれます。父親は教師でした。病弱でおとなしい子供時代を過ごし、中学卒業 …
曽宮一念は、東京都日本橋区漬町(現中央区日本橋浜町)に生まれます。本名下田喜七(しもだきしち)。大下藤次郎、藤島武二、黒田清輝に師事します。曽宮一念は、東京美術学校卒業後、山下新太郎、中村彝に手ほどきを受けます。1914 …
高塚省吾は、岡山市に生まれ、東京芸術大学に入学し1953年に学位を取得。在学中、梅原龍三郎、林武、硲伊之助らに師事。同年、芸大教授であり日本美術会の委員長を務めていた硲伊之助のすすめで第7回日本アンデパンダン展(日本美術 …
田崎広助は、1917年、福岡県師範学校(現福岡教育大学)第2部卒業。在学中、坂本繁二郎、安井曾太郎に指導を受けます。関西美術院にも通いました。戦後広稜会を設立。東郷青児らと「日伯現代美術展」(伯は伯刺西爾、ブラジルの意) …
田辺至は、1886年(明治19年)12月21日東京神田に生まれます。東京美術学校で後進の指導をしながら絵画制作を続け、1926年(大正15年)第8回帝展に出品した「裸体」で帝国美術院賞を受賞します。田辺至は、1927年( …
寺内萬治郎は、明治42年、白馬会葵橋洋画研究会で黒田清輝に師事します。東京美術学校では藤島武二に師事。大正7年文展初入選。大正11年耳野卯三郎らと金塔社を設立。大正14年第6回帝展に出品した『裸婦』が、昭和2年第8回帝展 …
本名東郷鉄春。東郷青児の描く甘美で魅惑的な女性像は、書籍、雑誌、ラッピングなどに数多く使われ、昭和の時代に美しい女性を見事に描く巨匠として戦後有名になります。東郷青児は、1957年(昭和32年)岡本太郎と日活映画「誘惑」 …
三岸節子は、女子美術学校(現 女子美術大学)の2年に編入しトップで卒業。1924年に三岸好太郎と結婚し、1930年に黄太郎が生まれますが1934年に夫は他界してしまいます。三岸節子は、太平洋戦争中も疎開せず、厳しい生活の …